人気ブログランキング |

大宮ホーリネス教会 毎週の週報から

さいたま市西区にあるキリスト教会です。毎週の礼拝説教の概要を公開していきます。
by OmiyaHoliness
カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
教会概要
所属教団 :
   日本ホーリネス教団
所属教区 :
   武毛教区
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

初期の教父たち4

2、護教家教父(弁証家)②
 最初の護教家はアテナイ出身のコドラトスであり、ハドリアヌス帝(117―138)に『弁明書』を献上している。また、アテナイのキリスト教哲学者アリスティデスは140年頃、アントニウス・ピウス帝に対して、同じような訴えを試みている。その後も多くの護教家が現われるが、その中で最も有名なのがユスティノス(100頃-165)である。
 ユスティノスはギリシャ哲学の各派(ストア派、アリストテレス派、ピュタゴラス派、プラトン派)を遍歴した後、エフェソでキリスト教に改宗した。ユスティノスは自分の宗教体験を次のように述べている。「ただちに、炎が私の魂にともされた。また預言者とキリストの友である人々との愛が‥‥‥。わたしはこの哲学のみが確かであり、有益であることを見出した」。この言葉からわかるように、ユスティノスはキリスト教をある意味で哲学的に理解した。そして、自分を哲学者と自覚していたようだ。
 ユスティノスは153年頃アントニウス・ピウス帝に『第一弁明書』を書いて、キリスト教の正当性を訴えた。またその後ローマの元老院に宛てて『第二弁明書』を書いている。彼は165年、他の哲学者の陰謀によって捕らえられ、ローマで殉教の死を遂げた。そのため、殉教者ユスティノスと呼ばれている。
 ローマの皇帝や関係者たちは、自分たちに宛てられたこれらの弁明書を一度でも読んだかどうかは分らない。読まなかった可能性のほうが強い。しかし、これらの『弁明書』によって、多くの人々がキリスト教に改宗した。また、これらの護教家たちは知識階級に属していたこともあり、次の世代へのキリスト教の神学的取り組みへの基礎を築いたと言える

# by OmiyaHoliness | 2007-08-03 19:30 | 教会の歴史

初期の教父たち3

2、護教家教父(弁証家)①
 護教家教父とは、キリスト教に対する誹謗、中傷、迫害に対して「護教論」を書いて、キリスト教を擁護しようとした教父たちであるが、まず最初に、キリスト教がどうして迫害されたのかを述べておく。
 広大なローマ帝国の権力は皇帝に集中した。そのため、皇帝を神として、人々は神殿において皇帝に犠牲を捧げる皇帝礼拝が行われるようになった。帝国には多くの民族がおり、それゆえに多くの宗教があった。それらの宗教を国は合法宗教(レリギオ・リキタ)と非合法宗教(レリギオ・イリキタ)とに分けた。この非合法宗教は皇帝礼拝を受け入れない宗教である。一つだけ例外があった。それはユダヤ教である。ユダヤ教だけは皇帝礼拝をしなくても合法宗教とされていた。
 帝国内においては、最初キリスト教はユダヤ教の一派と考えられていた。しかし、徐々にキリスト教に改宗する異邦人が増え、キリスト教はユダヤ教とは異なると判断され、キリスト教徒が皇帝に犠牲を捧げることを拒否したことのゆえに、非合法宗教(レリギオ・イリキタ)と判断され、迫害されるようになった。その他、ローマ人はキリスト教に対してさまざまな偏見を持っていたため。すなわち、ローマ人はキリスト教徒を無神論者と言って非難した。そして、キリスト教徒は、宗教的集まりにおいて不道徳な行為をしているという嫌疑がかけられ、それゆえに刑罰の対象になると言われた。彼らは人肉を食べ、酔っぱらい、姦淫を行っている。特に近親相姦をすると信じられていた。これらは聖餐式を行い、お互いを兄弟姉妹と呼び、お互いに愛し合うことを主張するキリスト教の教えを誤解したものである。キリスト教の集会は非公開であり、当時は夜に行われたことがこのような誤解につながったものと思われる。
 このようなキリスト教に対する迫害と、誤解に対して、正しいキリスト教を知ってもらいたいと、「キリスト教の護教論」を書いたのが護教家教父(弁証家)である。

# by OmiyaHoliness | 2007-08-03 19:28 | 教会の歴史

初期の教父たち2

1、使徒教父
 使徒教父とは、使徒たちの直後の教父たちである。と言っても、この人たちがどのような活動をしたかということが記録に残っているのではなく、この人たちが書いた文書が残っているだけである。それは『バルナバの手紙』、『ローマのクレメンスの手紙』、『アンテオケのイグナティオスの手紙』、『ポリュカルポスの手紙』、『ヘルマスの牧者』、『ヒエラポリスのパピアスの文書』(断片)、『十二使徒の教訓』(ディダケー)等である。
 新約聖書の後期と重なるが、紀元70年にエルサレムが陥落し、キリスト教はユダヤの地を離れ、ローマの世界に広まって行った。それによって、新約の時代にはなかった新たな出来事に直面するということもあったであろう。また、徐々にキリスト教の共同体として組織化することも必要だったと思う。そのような中でこれらの文書は書かれた。すべての文書について述べる余地はないので、『ローマのクレメンスの手紙』と『アンテオケのイグナティオスの手紙』について述べておく。
 エイレナイオスによると、クレメンスはペトロから継承された3代目のローマの司教であった。クレメンスはコリントの教会の内紛を解決するために手紙を書いたが、それが『コリントの信徒への第1の手紙』(95-96)であり、クレメンスの書簡として最もよく知られている。ただし、この書簡は新約聖書の「コリントの信徒への第一の手紙」とは異なる。聖書の書簡はパウロの著作である。クレメンスがコリントの教会に手紙を書いたということは、その内容から、コリントに対するローマの優位性を表すとされているが、この問題は後で取り上げる。
 イグナティオスは、トラヤヌス帝(98―117)に捕えられ、死刑の判決を受け、獣と戦うためにローマに護送された。その護送の途中、各地の教会に、また、同労者に書いたのが手紙として残っている。また、イグナティオスは、主の晩餐を「不死の薬」と述べたことで知られている。やがて、ローマで殉教した。彼は司教の権威について、初めて取り上げた。
 使徒たちからこれらの教父たちが継承した福音とはどのようなものだったのだろうか。もし、彼らが受け継いだものが神の言である聖書だけであるとしたならば、彼らは徹底的に言葉にこだわらなければならず、変化する状況に対応できなかったであろう。彼らが受け継いだのは、言葉ではなく、キリストの命だったのである。

# by OmiyaHoliness | 2007-08-03 19:26 | 教会の歴史

初期の教父たち1

 パウロは「しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(ガラテヤ1:8)と述べ、福音が正しく継承されて行かなければならないことを述べている。では、イエスからその福音を継承した使徒たちが、どのような人々にその福音を手渡したのだろうか。多分、その福音を継承した人々は、異端やさまざまな思想文化と対面し、「聖書にこのように書いてある」ということだけでは解決のつかない問題に出会ったと思う。そのような時に、人々はあくまでも聖書の教えに立ちながらも、新しい問題に対処するために、聖書の教えを適用に、発展させなければならなかった。ここにキリスト教史の展開がある。
 使徒たちから福音を受け継いだ人々、特にその指導的立場にあった人々を「教父」と呼ぶ。ここにおいてはニカイア公会議(325年)までの初期の教父たちについて述べたいと思う。この初期の教父たちは、①使徒教父、②護教家教父(弁証家)、③反グノーシス主義教父に分けることが出来る。
 使徒教父は、1世紀から2世紀にかけて、新約聖書の書かれた時代、もしくはその直後の時代に活動した人々である。使徒と個人的に交わりがあったとか、使徒の弟子であった、あるいは使徒の宣教を直接反映している教父たちである。
 護教家教父(弁証家)とは、キリスト教に対する誹謗、中傷、迫害に対して「護教論」を書いて、キリスト教を擁護しようとした教父たちである。
 反グノーシス主義教父とは、初代教会において大きな脅威となっていたキリスト教的グノーシス主義者のグループに対して、駁論を著した教父たちである。
 一応初代教父たちを、使徒教父、護教家教父(弁証家)、反グノーシス教父と区別したが、一人一人の教父が、そのようにはっきり区別できるわけではなく、それぞれの教父が、自分たちの直面する問題と戦いながらも、キリスト教の本質を求めていると言える。

# by OmiyaHoliness | 2007-08-03 19:22 | 教会の歴史

初代教会の背景6

4、ヘブライズム
 西欧の歴史には大きな二つの流れがある。その一つはローマ・ギリシャによって構成されるヘレニズムであり、もう一つはイスラエルによって構成されるヘブライズムである。
 地中海全体を包み込むローマ帝国に対して、イスラエルは真に小さな国である。イスラエルは四国とほぼ同じくらいの大きさの国で、天然資源にも恵まれず、広大なローマ帝国の中で、最も目立たない地域の一つにあった。歴史的に見ても、アッスリヤ、バビロニヤ、エジプト等の大国にその存在を脅かされ、文化的にも、ギリシャの文学や哲学に匹敵するものはなく、さらに、絵画、彫刻、建築物においても、ヘレニズム世界に匹敵するものは何もなかった。そのイスラエルをして世界史の二大源流の一つとならしめたのは、イスラエル宗教の特殊性であった。
 ギリシャ・ローマはその高度な文化的貢献にもかかわらず、宗教的には何ら見るべきものはなかった。元々多神教であり、帝国を拡大するために他民族を征服する度毎に、その民族の宗教を受け入れ、宗教的折衷がなされた。そのために、きわめて迷信的であり原始的であった。
 イスラエル宗教の特長は、第一に唯一信仰であったということである。当時の地中海世界の中で、イスラエル民族だけが万物の創造者である唯一の神を信じていた。そして、その神を、単に世界を創造しただけではなく、歴史を導く神として信じていた。神はイスラエルと契約を結び、選民として導いた。しかし、選民イスラエルの現実は決して祝福されたものではなかった。北王国イスラエルはアッスリアに滅ぼされ(前722年)、南王国ユダもバビロンに滅ぼされた(前587年)。それから50年後ペルシャのクロス王によって、祖国への帰還が許され、国を復興することができた。その後も周りの大国に脅かされ、そのような中で、イスラエルの望みは、神が遣わされるメシアによって神の国がもたらされることに向けられていた。
 もう一つ、ヘレニズムとヘブライズムの大きな相違は、ヘレニズムが、精神と物質、霊魂と肉体、目に見えるものと見えないものとを分離する二元論であるのに対して、ヘブライズムは、それらを結びつける一元論的考え方をするということである。

# by OmiyaHoliness | 2007-08-03 19:20 | 教会の歴史